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先生&生徒のつぶやき

2023.07.26

利他的偉人伝②「乃木希典~聖将と呼ばれた男~」

執筆者:藤原 彰将

香川県善通寺市には陸上自衛隊の駐屯地があり、その敷地内に「乃木館」という記念館が併設されています。

乃木とは、明治期の軍人 乃木希典将軍のことです。
生徒の皆にとっては乃木坂46の乃木坂という地名の由来になった人といった方が「へぇ~」と思うかもしれません。
今回は、そんな乃木将軍にまつわるエピソードを紹介します。

乃木希典将軍

乃木希典将軍は、54歳の時に日露戦争における旅順攻囲戦の指揮を執ることになりました。
遡ること10年前の日清戦争で旅順要塞を僅か1日で陥落させた実績を買われての抜擢でした。

しかし、ロシア軍が防備を固めた旅順要塞は、事前の情報を遥かに超えた強固な大要塞と化していました。

戦場入りしてからというもの、乃木将軍はほとんど眠ることもなく、食事も将官用の御馳走ではなく一般兵と同じものを食べ、皆と苦痛を分かち合いながら戦い続けました。

攻撃を仕掛ける度にロシア軍の集中砲火を浴び、大量の犠牲者を出しながらも、半年の激闘の末ようやく旅順要塞を陥落させることに成功します。

旅順陥落後、各国のメディアは、近代戦において有色人種が白人を倒した歴史上類を見ないこの戦いの結末を写真に収めようと、乃木将軍に対して撮影の要望を出しますが、乃木将軍は「ロシアの将軍に恥をかかせたくない」と拒否しました。
それでもと食い下がるメディアに対し、条件を出したうえで許可したのが次の写真です。

乃木将軍とロシアの将軍

この写真を見て、どちらが勝者でどちらが敗者かがわかりますか?

慣例上、敗軍の将は帯刀を認められないのが世界の常識でした。

しかし、乃木将軍は「勝者とはいえ敗者の尊厳を踏みにじることは許されない」と考え、敢えて皆が同列として写った写真を報道陣に使わせました。

この出来事は「水師営の会見」と呼ばれ、様々な国で乃木将軍の誠実な人柄が知られるきっかけになりました。

その後、敵将ステッセルはロシアで敗戦責任を追及され死刑を宣告されますが、それを知った乃木将軍はすぐにロシアに宛て、ステッセルがいかに愛国心を持って祖国のために勇敢に戦ったかを訴える内容の書簡を送りました。
その結果、ステッセルの処刑は取りやめ、シベリア流刑に減刑となりました。
さらに、遺されたステッセルの家族に対して乃木将軍は自らが亡くなるまで生活費を送り続けました。

多数の死者を出した日露戦争でしたが、乃木将軍もこの戦争の中で二人の息子を亡くしています。
戦後、日露戦争の英雄として、東郷平八郎らと長野県での講演会に呼ばれた際には、登壇を求められても断り、その場に立ったまま「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」と一言そう言って涙を流したそうです。
自分自身も家族を失った立場でありながら、それ以上に「自分の指揮で、多くの国民から家族を奪ってしまった」という自責の念を持ち続けていたのです。

戦後、乃木将軍は戦争で傷ついた兵士たちを収容する廃兵院に何度も見舞いに行き、多額の寄付をし、上腕切断者のための義手の設計に協力。
年金を担保として義手の製作・配布を行うなど、傷痍軍人の支援を精力的に行いました。

さて、乃木将軍が現在まで偉大なリーダーとして語り継がれているのは何故でしょうか?
歩兵第22連隊旗手として従軍していた櫻井忠温は後年、次のように語っています。

「乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った。」

弱者を虐げず、他人の悲しみを自分のことのように考え、損得を考えず人として正しい行いに徹する。

そんな乃木希典将軍だからこそ、多くの兵士の心を動かし、大事な局面での戦いに打ち勝つことが出来たのではないかと思います。

そんな乃木将軍の真っ直ぐな生き方は、現代を生きる私たちにも変わることのない大切な事を伝えてくれているように感じます。

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